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横浜地方裁判所 昭和47年(わ)1231号 判決

被告人 猪狩健

昭和二二・一一・一二生 元郵政事務官

遠藤敏勝

昭和二五・七・五生 郵政事務官

主文

一  被告人猪狩健を罰金三〇、〇〇〇円に処する。

二  被告人猪狩において右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

三  訴訟費用中、証人米本享資(二回分共)、同海老沢静雄(第一二回公判期日分)、同万木寛に支給した分は被告人猪狩の負担とする。

四  本件公訴事実中、被告人猪狩健が建造物を損壊したとの点については、同被告人は無罪。

五  被告人遠藤敏勝は無罪。

理由

(本件犯行に至る経緯)

被告人猪狩健は、昭和三八年四月東京中央郵政研修所に入所し、同年五月横浜市戸塚区戸塚町四一〇二番地所在の戸塚郵便局郵便課集配係(昭和四〇年ころ集配課となる)に配属されて以来同局集配外務員として同局に勤務する職員であり、かつ全逓信労働組合(以下単に全逓という。)に所属する組合員として、昭和四二年以降は全逓横浜西地方支部青年部常任委員、同青年部副部長、同支部執行委員等の地位にあつた。ところで右戸塚郵便局においては、郵政省によつて樹立された合理化を図るための生産性向上運動が展開されていたが、昭和四五年八月大山吉五郎が同郵便局長として赴任した頃から、同局長はじめ同局管理職員によつて右生産性向上運動が強力に推し進められ、一般職員に対する労務管理方針の強化が図られ、これに反撥する組合員との間に紛争が絶えなかつた。そして、昭和四七年八月五日被告人猪狩健及び同局集配課に勤務する職員で、かつ全逓横浜西地方支部青年部副部長であつた相被告人遠藤敏勝らが同郵便局庁舎一階正面ガラス窓等にビラを貼りコンクリート製支柱等に赤色スプレー塗料を用いて落書した事実により横浜地方裁判所に建造物損壊罪で起訴され、そのため被告人猪狩及び相被告人遠藤は同月八日付で休職処分の発令を受けた。被告人らは、右事件による拘束を解かれたのち、同月二〇日ころから連日のように戸塚郵便局二階集配課事務室に赴き、その都度同局集配課長米本享資ら管理職員に対し右休職処分の理由の説明を求めたり、就労を要求するなどしたが、右管理職員らは、休職処分の理由は交付済の処分説明書に記載されている通りであるし、休職中であるから就労させるわけにはいかない旨を回答し、被告人らが右回答を不満であるとしてなおも集配課事務室に入室しようとするのを数名の管理職員らが同室入口付近に立ち塞がる等の方法で阻止するという状態が繰り返されていた。このような状況下において、被告人猪狩は、同年一〇月二日午前七時三〇分ころ、相被告人遠藤とともに同局に赴き、右集配課事務室付近において、被告人らの入室を阻止しようとして同所で待機していた柳川、和田両集配課副課長、海老沢同課課長代理、文田庶務会計課課長代理等の管理職員に対し、「おはよう、仕事をさせろ、入れろ」などと言いながら同室内に入ろうとし、その声を聞いて同所に来た米本享資集配課長が「帰りなさい。退去しなさい」などと言つて入室を阻止するのもきかずに同室内に数メートル入つたが、その直後右米本に手首や上膊部を掴まれて引つ張られ、右文田に腰部を押される等して室外の廊下に連れ出された。

(罪となるべき事実)

被告人猪狩健は、昭和四七年一〇月二日午前七時四〇分ころ、前記戸塚郵便局二階集配課事務室出入口付近廊下において、前記集配課長米本享資らによつて右事務室から連れ出された直後、自己の両手の拳を胸の前で合わせ、両肘を上げて横に張り、これを左右に振りながら、右米本享資(当時四一歳)に対し「何をするんだ、管理者は暴力を振るうのか」などと言つて詰め寄り、その姿勢のまま左方に体を引き、素早く右肘を高く突き上げて前記米本の右顎部を一回突く暴行を加え、よつて右米本に対し、全治約一〇日間を要する左顎関節捻挫の傷害を与えたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人猪狩の判示所為は刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で処断すべきところ、本件犯行は判示のとおり労使間の対立が激化した中で行なわれた偶発的なものであること、傷害の程度も比較的軽いものであること、被告人はその後懲戒免職の発令を受けていること、前科前歴がないことなどの事情を考慮して同被告人を罰金三〇、〇〇〇円に処し、同被告人において右罰金を完納することができないときは刑法一八条により金二、〇〇〇円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により主文第三項掲記のとおり同被告人に負担させることとする。

(弁護人らの主張に対する判断)

一  弁護人らは、本件傷害の事実は当局側が被告人猪狩の就労闘争を中止させるために仕組んだ虚構のものであるから無罪であると主張し、同被告人も公訴事実記載の暴行を加えた事実は全くないと弁解するので、この点につき検討すると、前掲証人米本享資は、本件事件発生当時より一貫して同被告人から判示のような態様の暴行を受け、その結果前判示の傷害を負つた事実を明確に供述し、また、前掲証人海老沢静雄は右暴行を加えた状況及びその直前直後の状況につき、前掲証人文田十吉は右暴行の直前直後の状況につき、いずれも証人米本の供述にほぼ合致する供述をしている。

ところで、弁護人らは、右各証人はいずれも当局側の管理職員であつて、いわゆるでつち上げのため口裏を合わしたものであり、特に被告人猪狩と被害者との身長差からすれば、右証人らの供述するような態様の暴行を加えることは不可能であること及び被害者が直接打撃を受けた右顎部には何ら外部的所見が認められないにもかかわらず左顎関節捻挫を惹起していること等極めて不合理な点が多く信用できないと主張する。

しかし、右各証人が一致して故意に虚偽の供述をしたという事情はまつたく窺われ得ない。かえつて、証人米本は、右顎部に暴行を受けた瞬間、両手で両頬を押えて左耳の痛みを訴えた事実を供述しており、前掲証人万木寛も初診時右米本が左顎関節部の痛みを訴えていた旨同人の供述を裏づける供述をしているのであつて、本件のような捻挫が稀有な症例であることに徴すると、右米本の供述は同人のとつさの行動を説明するものとしてむしろ自然な供述と考えられる。弁護人らが主張する身長差の点については、被告人の身長が被害者より約七センチメートル低い事実は窺われるが、右程度の身長差の下では判示の態様による暴行を加えることは十分可能と認められるし、また本件受傷の有無については、前示のとおり受傷直後の状況に関する被害者米本の供述に作為的態度が窺われ得ないのみならず、証人万木の供述によれば、直接打撃を受けた右顎部には、発赤、腫脹等の外部的所見は認められなかつたが、診察の結果によると左顎関節部に著名な圧痛があり、また歯のかみ合わせもよくないところから、医学的には本件左顎関節捻挫の傷害は発生可能なものとして十分是認できることを臨床医としての経験ないし専門的知識に基づき供述していることが認められるので、弁護人主張の右の諸点は前掲各証人の供述の信用性を左右するものではない。なお、本件全証拠を検討しても、被害者米本が判示暴行による以外に受傷の機会があつたことを窺うに足りる資料は見当らない。

以上のとおり前掲各証人の供述は十分信用することができるので、本件傷害の訴因は優にこれを認定することができる。

二  弁護人は、かりに傷害の事実があつたとしても、被告人猪狩の本件行為は、正当な組合活動としてなされたものであるから、刑法三五条により無罪である旨主張するけれども、前叙認定のとおり、本件傷害行為は、休職処分に付された被告人猪狩が管理職員の正当な阻止行為を排除し就労しようとした際に、暴力を振い負傷させたものであつて、労働組合の活動としてなされたものとは認められないから、正当行為とはいい難く、弁護人の右主張は採用できない。

(本件公訴事実中被告人猪狩健及び同遠藤敏勝に対する無罪部分の判断)

一  被告人猪狩健に対する公訴事実中建造物損壊の事実及び同遠藤敏勝に対する本件公訴事実は、「被告人両名は他一名と共謀のうえ、昭和四七年七月一八日午後一一時二五分ころ、横浜市戸塚区戸塚町四一〇二番地所在の戸塚郵便局において、同郵便局長前田芳郎管理にかかる同郵便局庁舎一階公衆室はめころし窓ガラス一一枚、同室入口ガラス扉二枚および同庁舎通用口のコンクリート柱、同通用口に接続するコンクリート塀などに、赤色・黒色などのマジツクインクを使用して「不当処分紛砕悪徳管理者追放」「つば男文田局を出て行け俺達はあまくないぞ」「文田あやまれ」「郵政の飼犬車にひかれて死ね」などと記載したビラ一二五枚を糊付けして貼付し、または赤色スプレー塗料を用いて「文田アヤマレ」「不当処分粉砕」などと落書をし、もつて建造物を損壊したものである。」というのである。

二  被告人両名の当公判廷における各供述、証人松下義彦の当公判廷における供述、第三回公判調書中の証人渋谷和則の供述部分、第四回公判調書中の証人水野三郎、同篠崎瑛一の各供述部分、第五回公判調書中の証人佐々木隆、同石原政吉、同古川孝行の各供述部分、第六回公判調書中の証人松下義彦の供述部分、第七回公判調書中の証人文田十吉の供述部分、第八回公判調書中の証人山内博、同樋口綾子の各供述部分、第九回公判調書中の証人加藤学の供述部分、司法巡査作成の写真撮影報告書二通、司法警察員作成の実況見分調書、神奈川県警察本部鑑識課長作成の検査結果回答書、押収してあるカラー写真一八枚及びビラ一二五枚(昭和四八年押第八五号の一及び六)を総合すると、被告人両名は、昭和四七年七月四日全逓横浜西地方支部青年部員らとともに戸塚郵便局通用口付近において同支部青年部の作成したビラを配付中、被告人らに対し局構内でのビラ配付を中止するように申し向けた同局庶務会計課長代理文田十吉のつばきが被告人猪狩の顔面にかかつたとして右文田に謝罪を求めるため及び同郵便局当局の日常の労務管理体制に抗議するため、外一名とともに、同月一八日午後一一時二五分頃、前記戸塚郵便局(局長前田芳郎管理)庁舎(以下本件建物という)一階公衆室のはめ殺し窓ガラス一一枚、同室入口ガラス扉二枚に外側から黒色・赤色等の一色もしくは数色のマジツクインキを使用して公訴事実記載のような文言を記載したビラ合計一二五枚(以下本件ビラという)を糊で貼り付け、また同庁舎通用口のコンクリート柱二本及び同通用口に接続するコンクリート塀に赤色塗料を使用して「文田アヤマレ」「不当処分粉砕」と落書した事実が認められる。

そこで、被告人らの右行為が刑法二六〇条にいう建造物損壊の行為に該当するか否かについて検討するに、同条にいう建造物の損壊とは、建造物の本来の効用の全部又は一部を失わしめる一切の行為をいうものであつて、建造物の形状を物理的に損傷する場合はもとより、物理的に損傷を加えないまでも、これを著しく汚損してその美観を害する等の方法で建造物の効用を減損させる場合もまた右の損壊に該当すると解すべきである。そして、建造物に対する美観の減損が損壊といえるか否かは、すべて通常の建造物にはそれ相当の美観を有しているものではあるが、美観自体が一般的には建造物の本来の効用とは直ちにいえないこと、建造物損壊罪は非親告罪であつて、器物損壊罪より法定刑が著しく重いこと及び軽犯罪法一条三三号の規定が存することなどを考え合わせると当該建造物の用途、機能との関連において、減損行為の体裁、内容、態様等を考慮し、減損程度につき原状回復の難易をも勘案する等諸般の状況を総合考慮して個々具体的に建造物の本来の効用が害されたかどうかを判断すべきものと解するものが相当である。

そこで、本件建物につき、右の観点に立つて順次検討することとする。

(一)  前掲各証拠を総合すると次の事実が認められる。

1 本件建物の概要と建物付近の状況

本件建物は、昭和二九年ころ完成し、昭和四二年ころ増改築された地上三階地下一階(床面積各階約七〇〇平方メートル。但し一階は約五七〇平方メートル、地階は車庫)の鉄筋コンクリート製郵便局庁舎である二階と三階は事務室、一階は事務室及び公衆室(お客さまルーム)で構成されているほか、二階、三階のうち南西側部分は一階公衆室南西側に隣接する二列のコンクリート製柱(計一〇本)で支えられており、ビロテイと呼ばれる一階の空間部分は同郵便局の通用口となつている。また、公衆室南西側のコンクリート支柱の中の南西端の一本に密着して高さ約二メートルのコンクリート塀がL字型に築造されている。建物正面は幅員二・六メートルの歩道及び同一二・三メートルの旧国道一号線に面し、右道路を隔てて戸塚バスセンターと向い合つており、右国道は車両の交通量が多く、また庁舎北隣りには駿河銀行戸塚支店が、南隣りには当時新築中のトツカ薬局がそれぞれ存し、裏側は小高い山林に続いている。

2 ビラ貼付の状況

(1) 貼付場所の状況

本件ビラが貼られた場所は本件建物一階公衆室(床面積五六・五平方メートル)の正面外側で、同場所は高さ二・三メートル幅一・〇メートルのはめ殺しガラス窓一四枚及び同型のガラス扉二枚から成り、同ガラス窓はアルミ製枠に透明ガラスがはめ込まれているもので、同建物の内外を遮断する外壁をなすものであり、またガラス扉も同様の形状のもので、その片側がビスで同建物の外壁をなすガラス窓枠の一部に固定されていて、通常人では取り外すことが困難であつて、いずれも本件建物の一部分である。これらガラス窓及びガラス扉は右建物の採光、美観をも考慮して採用され、その室内側にはレースのカーテンが掛けられている。右公衆室内では同郵便局の窓口事務を扱つており、同局を利用する一般公衆のほとんどは右ガラス扉を利用して入室する。同室内の照明は前記ガラス窓、ガラス扉からの採光のほか室内に設置されている螢光灯によつており、右螢光灯は執務中は日中においても点灯されている。

(2) 貼付されたビラの形状等

本件ビラはわら半紙縦半切り大(縦約三六センチメートル、横約一二・五センチメートル)のものに黒色、赤色、青色等の一色もしくは二色以上のマジツクインキを使用して手書きで、「ツバ男文田すなおにあやまれ浜西青年部」「権力の番犬(労担)文田の非道を許さないぞ全逓浜西青年部」などと個人をも非難するものと思われる内容を含む文字を記載したもの約五〇枚と「不当処分を断固として粉砕するぞ全逓浜西青年部」「更衣時間を断固としてかちとるぞ!全逓浜西青年部」のように労務管理体制を攻撃する文字を記載したもの約八〇枚ほかの合計一二五枚であり、前記はめ殺しガラス窓のうちの一一枚及びガラス扉二枚の中央部分(ビラの上部が地上約一・五メートル位の部分)にガラス一枚につきビラ二枚ないし一二枚を二段(二枚のところは一段)にして通常の水糊様のものを用いて一部若干のゆがみはあるものの比較的整然と並べて貼つてある。はめ殺しガラス窓のうち三枚(うち一枚には九〇センチ四方大の郵便局の掲示物が掲示してある)にはビラは貼られていない。

(3) 原状回復状況

貼付されたビラの剥離及びガラスの清掃は、戸塚郵便局が清掃業者である日国サービス株式会社に請け負わせて行なつた。その具体的作業は作業員がまずビラ貼付部分にホースで単に水をかけ糊を軟化させ、二、三分して浮き出たビラを剥離し、そのあとガラスを拭きあげるものであつて、その間の所要時間は作業員二名で約一時間三〇分を要するのみであり、作業準備時間をも含めても約二時間で何らの痕跡も残さずに完了しその経費は四、四二五円であつた。そして、右所要時間はなるべくビラを破損せずに剥離するようにとの郵便局側の指示に従つて全部のビラを一枚一枚丁寧に剥離したために、ビラの破損に意を配らず単に剥離清掃するだけの場合に比べると若干余計に時間を要したものである。なお、同郵便局においては本件以前にも数回前記公衆室ガラス窓にビラを貼付されたことがありその際はいずれも業者に依頼せずその都度同局職員の手で約一時間位かけて剥離清掃していたもので、右剥離等には特に高度もしくは専門的技術を要しない。

3 落書の状況

(1) 落書された場所の状況

落書された場所は本件建物の正面に向つて左側通用口の入口部分にあつて、同庁舎二階三階部分を支えているコンクリート製茶褐色の柱二本のいずれも道路側に面する部分の二個所と右柱のうちの左側柱に接続して築造されている灰色L字型コンクリート塀部分であり、右各柱は高さ約三メートル、道路に面している部分の幅約六〇センチメートルの屋外の柱で、同建物本体部分の正面の側壁面より約三メートル余奥の方に位置しており、その相当部分が庁舎の影になつている。そして、右両支柱の間は同局通用口の入口となり、同局に勤務する職員及び二階三階の事務室を訪れる切手売捌き人等が出入りする場所として利用されているものであるが一般人には利用されていない。また、右コンクリート塀は落書された左側柱の左端部分に密着した土地に定着して築造されている高さ約二メートル全長約五、六メートルのL字型の塀で本件建物の本体部分には接着していないけれども、建物の構成部分たる前記柱に接着して同庁舎を隣家から隔離し、敷地の境界を画しているもので、前記のような材質、築造の状況等に鑑み本件建物と一体を成すものと認められる。右塀の道路側前面には同塀に密着して造りつけのコンクリート製ゴミ箱が設置されているほか、構内駐車禁止と書かれた掲示板が立てかけられ、廃棄物と思料されるダンボール箱その他の物が多数積み重ねられていて、塀の下方約二分の一位は外部からは見えない状態である。

(2) 落書の状況等

柱に対する落書は、柱二本の道路側に面した部分の幅一杯に長さは地上から高さ約二メートルの位置に亘つて合成樹脂系の赤色カラースプレーを用いて向つて右側柱には「文田アヤマレ」と、向つて左側柱には「不当処分粉砕」と書いてある。塀に対する落書は右塀の全面積の約三分の一に当る部分に右柱の落書とほぼ同じ大きさの文字で同じような書体でラツカー系赤色カラースプレーを用いて「不当処分粉砕」と二か所書いてある。

(3) 原状回復状況

前記柱、コンクリート塀の落書を消去するには、それら落書の上から同色のペイントを二度塗り重ねるのが最も簡単かつ効果な方法であるが、右作業は塗装技術をもたない通常人には困難なため業者に依頼して行わざるを得ないのであつて、右方法による場合には、その作業時間は右柱二面と塀のほか右塀の前面に置かれているコンクリート製ゴミ箱及び同ゴミ箱の蓋に書かれた落書の消去をも含めて合計約四時間(ただし二度塗りのため二日間にわたる必要がある)であり、経費は七、〇〇〇円ないし八、〇〇〇円を要するものである。しかし、本件においては、現実には右の方法をとらず、これを請負つた石原塗装店の作業員が一日目は二名で午前中、二日目は一名で午前中から始めて午後三時頃までかけて右落書部分を一部削り取り、その跡を補修し塗装するという方法で行ない、その経費は一八、五〇〇円であつたが、右作業時間及び経費は前記ゴミ箱及びその蓋の落書の消去分をも含むものであるほか、右消去方法は、落書に用いた塗料を削り取つて保存しておきたいという郵便局側の希望により、落書部分を五か所にわたつてたがねで削り取り、その削つた跡を修復したうえで塗装するという方法をとつたため、単に塗料で塗り潰す方法に比してより多くの時間と経費を要している。

(二)  以上の認定事実を基礎にして本件ビラ貼り及び落書が本件建物に与えた影響について考察する。

1 本件ビラ貼り行為が物理的に右庁舎を損傷したといえないことは前記認定事実に照らし明らかであるが、証人松下義彦の当公判廷における供述、第六回公判調書中の同証人の供述部分、第八回公判調書中の証人山内博の供述部分によると、本件ビラが直立した人間の眼高位置付近に貼付されたため公衆室内外の見透しが害され、同室内のガラス部分からの採光が若干害されたことが認められる。しかしながら右貼付個所は前述のように本件建物の外壁として利用されている部分であつて、特に内外の見透しが必要である場所とはいえないし、採光阻害についても、その程度はガラス部分から太陽光線が差し込んでいる状態の時にレースのカーテンをかけた程度に暗くなつたというもので、同公衆室には螢光灯が設置され日中も常にともされていることもあつて執務室に差し支えるものではないのであつて、右のほかビラ貼り行為によつて本件建物の効用が減損したと考えられるような事情は後述の美観の減損の点を除いては存しない。又落書の行為についてもこれが本件建物を物理的に損傷したといえないことは前叙認定事実に照らし明らかであり、右落書された柱及びコンクリート塀の前記利用状況に鑑みると、本件落書によつてその利用に支障を来したという事情は認められず、結局美観の減損が同様に問題となるに過ぎないものと考えられる。

2 そこで、更に美観の減損の有無程度について検討すると、本件建物は、郵便事業に関する一般事務等に使用する実用的建造物ではあるが、それ相応の美観を有し、従つて、これにビラを貼付し落書をしたことにより右建物の美観を損ねたことは否定しえないけれども、他方本件ビラ貼り等の状況は前述のとおりであつて、ビラについては一二五枚という相当数の枚数とはいえ、その大きさは統一されており、その内容も一見して労使間の紛争に端を発しているものと分る文言であること、貼り方は比較的整然としていて見る者に対しさほど不快の念を感じさせる程ではなく、また水洗いにより簡単に除去できる程度のものであつて原状回復も容易であつたこと、落書については赤色スプレーで大書してあるけれども、落書された場所は本件建物の本体部分ではないうえに、落書された柱は建物本体の正面の側壁面より約三メートル余引つ込んでいるところにあつてそれほど目立つ場所ではないこと、柱に書かれた文字は赤色であるけれども、右柱が茶褐色で若干暗い場所にあるためさほど強烈な印象は受けないこと、塀の部分は前述のとおりもともと美観が問題とされる利用のされ方はしていないこと、落書の消去も柱等に損傷を与えることなく比較的容易に実現できることまた本件において、ビラと落書とを一体として同時に評価してもビラが貼られた場所と落書をされた場所とは、前示のとおり一箇の建物の一部であるとはいえ、その構造等から区別することが一応可能な位置関係にあることやビラ貼付と落書とは手段、結果等の態様が異質なものであることなどのためにそれらが美観の減損に相乗的に作用するものとはいえないこと等の事情が認められるので、右事情並びに本件建物の本来の効用ないし機能等に鑑みると本件ビラ貼り等による本件建物の美観の減損は建物それ自身としての効用に影響を及ぼさない程度に軽微で一時的なものというべく、右によつて本件建物の美観をその本来の効用を減損させたと同様に評価すべき程著しく減損したものとは認めることができない。

三(一)  以上によると、本件ビラ貼り及び落書の行為が本件建物の形状を物理的に損傷し、或はその効用を減損して本件建物の本来の機能に沿う使用、利用を阻害した事実は勿論、その美観を著しく減損した事実もこれを認めることができないのであつて、被告人らの本件ビラ貼り等の所為が建造物損壊罪を構成するものではないと解するのが相当である。

(二)  なお、本件ビラ貼り及び落書の所為につき軽犯罪法一条三三号の規定を適用すべきかどうかが問題となるのであるが、建造物損壊罪と右軽犯罪法違反の罪とは罪質において異なるものがあり、構成要件においても相違するところがあつて、被告人らの具体的防禦方法にも違法性の有無とも関連し、重点のおきかたに相当の差違が生ずるものとみられるところ、本件は訴因変更を促しまたはこれを命ずべき事案とは考えられないし、検察官から訴因変更の手続はとられなかつたので、軽犯罪法違反の点に関する判断はしないこととする。

四  以上のとおりであつて、被告人猪狩に対する本件公訴事実中建造物損壊の訴因、被告人遠藤に対する本件公訴については結局犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人らに対し右の点についていずれも無罪を言渡すこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 大澤博 上田幹夫 高橋祥子)

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